京焼・清水焼について
■京焼の始まり■
東山山麓「清水」「音羽」「清閑寺」「粟田口」、洛北の「御菩薩」など、京都で焼かれた焼き物すべてを「京焼」という。京都は乏しい原材料の中で作られるので、他産地ように量産することができない。京焼の命は形・デザイン・釉薬の良さにあり、優雅で気品があり、技術的にも優れていると言われている。
平安時代から都が京都にあり、長く政治・文化の中心であった為、素晴らしい絵画や工芸品が自然に集まり、非常に文化水準が高かったこと。また多くの文化人が在住し、それらの人々が技術の良い陶工たちを指導して、形態やデザインの優れたものが作られるようになった。その上、室町時代から京都を中心に広まった「茶の湯」の流行は、多くの人がそれを好み、その必要性から焼き物の需要が急激に増え、競って良いものを求めるようになったからだと推測される。
京焼が作り始められたのは、桃山時代末頃とされているが、それをさかのぼる7世紀初めごろ「洛北岩倉幡枝栗栖野」や「西賀茂本山」付近で寺院の祭器や屋根瓦が多く作られ、中には緑釉が施されたものが出土している。特に8世紀の末、平安京の建設が始まると岩倉幡枝などの瓦窯はかなり大きな規模となり、平安京の中心である壮大な大極殿を飾った緑釉の瓦などを作り出したのである。
当時、緑釉瓦や緑釉陶器が焼成された窯跡は、現在数か所発見されているが、これらのうち特に「幡枝 栗栖野窯」跡から見つかった陶器の中には、回転が速くしかも正確な「ロクロ」により成形が行われたものがあり、須恵器とは全く別種である陶器が作られていたと推測される。しかしその「ロクロ」がどういう形をしていて、どこから伝わったのかは不明である。
■京焼の発展■
京都の焼き物の発展の仕方は、他産地の「越前」・「瀬戸」・「常滑」・「信楽」・「丹波」・「備前」など、後の日本の主要な陶器産業地となる所とは異なる。地方は主に、5~6世紀頃、朝鮮から伝わった須恵器の生産から釉薬の施された日用雑器へと進んでいくのに対し、京都の焼き物は、事実上、京都が「都」になって以来、その都で使用されるものを作ることから発展を始めたのであり、その事が後世も変わらず京焼の特色となったのである。
平安京が完成されるや、ただちに官立の工業所が作られたことで、京都の焼き物作りが盛んになっていった。弘仁6年(815年)に瀬戸などから来た陶工たちがこの養成所で勉強していたという記録が残っていることから、そこではおそらく、瀬戸などをはるかにしのぐ中国、朝鮮から伝来した最も新しい技術を教えていたのであろう。
そこで焼かれた物の多くは、皇室・寺院の用品であり、そこに住む人々が使ったものであろうと思われる。しかし、それらの焼き物は、まだ釉薬のかかった本格的な陶器ではなく、表面がざらざらした須恵器の延長のようなものであった。
13世紀はじめ頃は、瀬戸、信楽の製陶技術は京都よりはるかに進んでいた。瀬戸は加藤四郎左衛門景正が中国宋代に陶法の修行に赴き、1228年帰国し、瀬戸に良質の陶土を発見し製陶を始めて盛んとなった所である。それら瀬戸・信楽の陶工たちが都に憧れ、いつしか京都に来て先進陶法を「京焼」にもたらした。
その後、茶道の発展と結び付き、京焼も発展していったと考えられる。
■京焼の現状■
現在の京焼・清水焼は、五条坂を中心に、日吉・泉涌寺・山科清水焼団地、宇治炭山に集団を作り、その周辺に点々と窯元があり、窯元独自の釉薬・意匠を凝らした商品作りをしている。 原料の乏しい土地柄、少ない高価な材料でより良いものを作るには、厳しい創意工夫しか有り得ない。また高度な技術がなくては終わりである。これはあたかも世界における現在の日本の状況とよく似ている。
【発行所:株式会社保育社 「京焼」 著者:谷口良三】より抜粋
「京焼・清水焼」は経済産業省の登録名称であり、京都府内全域で制作・製造されている陶器を「京焼」と呼ぶ。
京都府内で製造されている陶器については、「京都陶磁器連合協同組合」が発行している「京焼・清水焼」のシールを貼ることができます。